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久しぶりにパースらしい気持ちの良い日。最高気温16度。 |
『もう、怒らない』小池龍之介著
多くの人が、考えることは得意です。しかし、仏道の立場からは、それでは死んでいるも同然です。考えごとは現実でもない事実でもない、妄想の世界。(はじめに)
この本のたとえ話がおおげさで秀逸です。例えば、取引先から、電話で、
アラスカに生息するアザラシを全部捕まえて三日以内に届けてくれ(126頁)と言われたら?
その瞬間、不愉快になると、「そこに小さな怒りのエネルギー」が生じる。その感情に流されてしまったら、「そんな無理な注文をする取引相手は死ねばいいのに」と、より大きな怒りに変わる。
しかし、こうなってから怒りをコントールするのは遅すぎる。怒りの気持ちが、かすかにわいてきているときに察する必要がある。
そのためには、日頃から自分の心の動きを見張っておく、つまり、自分の心の動きに自覚的であるよう訓練しておく。
訓練のひとつは、心と身体感覚をぴったり合わせること。今、この瞬間の手の感覚や呼吸の深さなどの感覚を意識して、心を体に一致させる。
これはよく聞く方法です。
他人に対する怒りの気持ちが出てきたら、相手を慈しむ言葉や哀れみを表す言葉を決めておいて、強引に何度も何百回も念じる。たとえば、仕事で自分を裏切った人に、または、自分をふった好きだった人に、
幸せたらんことを。
苦悩なからんことを。 (142頁)と。
心の不快さを感じ取ったら、自分が欲のせいでこんなにしんどくなっているのかと、己に実感させる言葉を唱える。例えば、
「欲の苦」(157頁)。と。
マインドフルな瞑想の教えを説く本はいろいろありますが、この本はときにココロの動きに対して闘争的で、かつ実践的です。
ですが、この本で一番驚いたのは、ここです。
「道」や「法」の立場から見れば、「宗教」は、一種の世俗的な娯楽に過ぎません。
そういった世俗的な心の延長である以上、映画や小説やギャンブルや飲酒といったようなものと似たり寄ったり、とすら申せるかもしれません。
現代日本仏教の最大の欠陥は、お釈迦様を裏切って「仏教」とラベルのついた宗教になってしまっていることです。(162頁)
著者は、「批判」を意見の押し付け(46頁)と諌めていますが、この描写、なんて気骨ある批判。ここだけ、どーんと言葉に色がついて目に焼き付いてきます。
宗教がますます先鋭化する今日この頃。世俗的な娯楽、いい言葉です。

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